詩誌『て、わ たし』

『て、わた し』第7号を読んで:椛沢知世さんより

11月24日第29回文学フリマ東京にて刊行予定の『て、わた し』第7号。
この本を通じて初めて触れる詩人の作品を紹介するために、今回、歌人の椛沢知世さんに刊行前のゲラをお送りし、ご感想をいただきました。
椛沢さん、ありがとうございました


肌にまとって詩と過ごす 椛沢知世

こんばんは。こんにちは。おはようございます。
今何時ですか?
どこで読んでいますか?
たすけてと、あなたは言えますか?
わたしは、あまり言えません。
たすけてと言って、たすけてもらえないことがあった。だれだってあるけれど、そういうのを積み重ねるうちに、いつのまにか言うのがへたになっていました。

「て、わたし」第7号を読んで、さいしょに思ったことは「くるしい」でした。
第7号のなかの詩は、特集「フラニー・チョイ 導くための声」でも、堀田季何さんの英語俳句も、長谷川結香さんの学生時代を描いた詩も、古﨑未央さんの詩と読むと詩を変えてしまうほどの散文も、それぞれが、それぞれの大きさで、それぞれのやり方で、それぞれの声を挙げている。訴えかけてくる詩・俳句がここにはあります。


特集「フラニー・チョイ 導くための声」の冒頭の2つの詩『チェ・ジョンミン』『「俺、豚肉炒飯が好きなんだぜ」と通りで私にわめいた男へ』を読み終えて、わたしは原稿の束から目を逸らしていた。アイデンティティにもなる自分の名前と人種についての詩と、女性として性的に見られることが描かれた詩。

原稿の束を裏返しにする。口の中の舌が浮き上がり、ここに収まっているのが自然だったのか、わからなくなる。かなしみや違和感、憤り、ときにつよい言葉も含む詩の、細部は覚えていないのに、詩の空気みたいなものが身体を反芻して、肩甲骨から不安になる。軽くストレッチをして、私は黙読を続ける。口に出して読むには、こわいと思う。

小学校一年生のとき私は母の許可をもらって
学校ではフランセスで通すことにした。七歳のとき、


ダメダメな舌たちが私の名をずたずたに発音するのに
うんざりしていたから。もうしようがない

このしょぼくてみじめな韓国名を砂に埋めて
見ないですむようにしていた。四年生のとき

フラニー・チョイ『チェ・ジョンミン』(訳・ヤリタミサコ)より

この詩の作者名は「フラニー」で、一般的にフランセスの愛称とされている。つまり、小学校一年生のときから詩人になる今まで作者は「フランセス/フラニー」を生きてきたことになる。韓国名と同時に。そのことを思いながら読み進める。

続く詩『感謝の言葉』では、誉められたことへのズレやそこに含まれる差別などを指摘しつつも感謝を述べていく。そして最後に、

ありがとう、私を所有してくれて
ありがとう、私を所有して、所有して、もっと。

フラニー・チョイ『感謝の言葉』(訳・ヤリタミサコ)より

差別は所有されることだと、そして、もっと所有してと望む。
あえて彼らの文脈に入り、あえて彼らの土俵に立つことをフラニー・チョイは選ぶ。現実の議論の場合、同じ土俵に立つことを疑問に思うこともあるのだけれど、これらの詩のなかでは、それが単なる意見表明の韻文になることを避け、目を背けられない居心地のわるさとなって現れている。口内や背中に、その違和感が共鳴する。

詩と詩の間に置かれた『用語集』には、「星・雲・口・海」の意味や反意語、参照すべきもの、期限、何を望むのかが書かれていて、詩を読むたびに戻っては、ぼんやりと見つめている。そういえば、口はわからないけれど、星・雲・海はぼんやりと眺めることが多いものだと思う。

さいしょに感じたくるしみは、「訴え」であることが原因だったのだろうかと疑問に思う。日々を乗り切るための「日常は地続き」という把握で覆った、そのぺらぺらのけれど分厚い覆いが、読むことではずれたからではないか。

読み進めるうちに、フラニー・チョイだけではなく私自身のくるしみ、かつ同時に存在する加害性と向き合うことになったからではないか。わたしはアジア人で女性で、作者のもつ痛みを自分のように感じるけれど、日本において人種としてはマジョリティーであるように、被害者と加害者のどちらの当事者になり得る。

最後には、訳者である四人の文章が寄せられている。それぞれの着眼点からフラニー・チョイとその詩、そして背景について語られていて、それらを読んでからもう一度読むと、別の角度から読むことができて面白い。

けれど初読は、訳者の文章より先に、何も入れずに詩を読むのがおすすめで、つまり私のこの文を先に読んでいただいたあなたには、その機会を奪っていることになるのです。ごめんなさい。
でも、体感は詩そのものを読んでこそ、です。同化するように体感するかもしれないし、離れたところからその体感を見つめることになるかもしれない。
たとえば、

女は私の髪の毛を掴んで、「友だちよ友だちよ友だちよ」と
私の唇がそこで錆びつくまでしゃべります。(茶色い粉が落ちてきて
私はそれを舐めちゃう、困ったことに。)

フラニー・チョイ『感謝の言葉』(訳・ヤリタミサコ)より

あるいはー最初の皮膚の中にずるずると滑りこんで戻ろうとしているだけ。

フラニー・チョイ『サイボーグの魂のための触手強姦』(訳・堀田季何)より


ちょうどいい言葉はない
氷は肌を焦がして切り裂き血を呼び集め
一気に流れを止めてしまおうとする

フラニー・チョイ『ソリチュード』(訳・西山敦子)より

どれも肌感覚が鋭い。意見とか訴えとか、そういったものももちろん大事だけれど、同時に言葉が身体に訴えるものがある。だからくるしくて、喉がかわいて、それでもまた読もうと思う。


そうやって、特集も、ほかのページも、くりかえし、くりかえし、読むうちに、たすけて、が出てきました。
どうして、か、わかっていません。
たすけてほしいのかも、わたしがわたしをたすけたいのかも、わかりません。
わからないから、また読もうと思います。言えないのにこうして書いてみたり、ごはんを作ったり食べたり、生活を続けながら、また読もうと思います。
わたしから出てきたものは、たすけて、だったけれど、あなたとわたしは違うから、あなたはあなたで、もし気になったのなら、読んでほしい。なにかが、出てくるかもしれない。

さいごに、「て、わたし」第7号でいちばん気になった詩、古﨑未央さんの『青いくに、白いみち』を一部引用したいと思います。

ちいさな手で
おおきな紙を青でぬりつぶす
きみの夢のくにがうまれる
ぬりのこしたところに
きみの夢のおうちがある

古崎未央『青いくに、白いみち』より

「ぬりのこしたところ」が、原稿をもらって一週間、ずっと白く残っています。
それが途中であれ、力尽きたのであれ、意志であれ、ぬりのこしていいんだ、と思ったからです。読んだとき、たすけて、がすこしゆるんだところでした。
けれど、それでいいのかは言い切れなくて、目に見える景色にぬりつぶされた青とぬりのこしたところを重ねながら、これを書いています。いつもより青い景色は、思ったよりもあったかかった。
さめたコーヒーをすすると、けれどしっかりぬるくて、濃い茶色をしている。

椛沢知世


感想を寄せてくださった方の紹介

椛沢知世(かばさわともよ) twitter
短歌をつくっています。塔短歌会所属、第30回歌壇賞次席。


『て、わた し』第7号は11月24日に東京流通センターにて開催される第29回文学フリマ東京にて初売りを予定しております。また、お取り扱い書店Online通販でも順次取り扱いいただく予定です。

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てわたしブックスの管理人です。